「しまったぁぁぁぁっ!! ズボンを下ろす前に出してしまったぁぁぁぁっ!!」

だしぬけにトイレの個室から響き渡るとんでもない金切り声に、おれは危うく小便が止まりそうになった。ため息を吐いて排泄を続行しようとするが、さっきまで勢いよく出ていた小便は、ちょろちょろと雫をたらすだけになっていた。

膀胱炎になったらどうするんだ、と思いながらおれが雫を切っていると、個室のドアが勢いよく開いて、ゆるくパーマのかかった髪を長く伸ばした痩せぎすの男が出てきた。先ほどの金切り声の主――同僚の高槻だった。やけに堂々としているが、丸めたズボンを小脇に抱えて、下半身丸出しの上に白衣を羽織った姿は、どう見ても変質者にしか見えなかった。

高槻はぎらぎらと血走った目におれの姿を捉えると、

「よぉ巳間! 大変なことになってしまったぞ!」

…頼むからおれに報告したりせず、自分の胸にしまっておいてほしかった。

「どうした、おれが大変なことだと言っているのに興味が無いのか!?」

「………」

おれは黙ったままそそくさと自分の持ち物をしまうと、ファスナーを上げて足早に手洗い場に向かった。だが、高槻はその後からついてきて、手を洗うおれの側で訊かれてもいないのにべらべらと喋り始めた。

「ついさっきのことだが実を言うとおれは糞を漏らしてしまった。主任研究員のこのおれがだ。いや、主任研究員だからかな? とにかく実験のデータのことを熱心に考えていたせいでうっかりズボンを下ろすのを忘れてしまったんだ。うん、やっぱり主任研究員だからこそだな。それにしても突然尻が熱くなってズボンが重くなるからびっくりしたぞ! 自分の尻から出てきたのにどうして糞というのはあんなに熱く感じるんだ!? なあ、おまえはどう思う?」

「………」

「どうした!? せっかくおれが珍しい体験をした話をしてやってるんだから、黙っていないで何か言ったらどうだ!?」

頼むからその口を閉じてさっさと手を洗ってくれ、とおれは言いたかったが、こいつと話すと気が狂いそうになるので黙っておいた。

便所を出たおれは高槻と並んで通路を歩いた。言うまでもなく嫌に決まっているが、こいつと行き先が同じなので仕方がなかった。それに、おれが走って逃げたところで、こいつは絶対後から追いかけてくるに決まっている。そうなると更にひどい目に遭うので、大人しく一緒に歩くしかなかった。

前から歩いて来た巡回員の男が、下半身丸出しの高槻を見て一瞬ぎょっとした表情を浮かべたが、すぐにそれを消して何も言わずに通り過ぎていった。こいつの気に障るか、もしくは気に入られると、酷い目に遭うことが判っているのだ。たった一言、こいつに「いやだ」と口にした巡回員の男は、今、壁と床の全面に分厚くクッションの貼られた隔離病棟で拘束衣を着せられて、日がな一日「はとぽっぽ」を歌っている。触らぬ神に祟り無しだ。だが、それすらも許されないおれはただひたすら被害が最小限で済むように涙ぐましい努力を続けるしかなかった。

「巳間、おれが糞を漏らしたことは誰にも言うなよ! バレたらみんなからエンガチョされてしまうからな!」

それだけ大声で言っておいて誰にも言うなも何もないものだ、とおれは思った。ここの壁は全部が防音処理などされていない打ちっぱなしのコンクリートで、いわば洞窟みたいなものだから、施設中に響き渡っているはずだ。だが、こいつに面と向かってエンガチョと言える度胸のある奴などいるわけがない。それに、そもそも、糞を漏らそうが漏らすまいがこいつは既に施設の全員から存在自体をエンガチョ認定されているのだ。おれは抑揚の無い声で「………わかった」と答えた。

「そうか! 黙っていてくれるか! やっぱり持つべきものは親友だなぁ!」

親友、という言葉に、おれの中にほとんど殺意に近いものが湧き上がった。こいつに親友認定されるのは、変態以下のレッテルを貼られるに等しかった。だが、そんなおれの苦悩などこれっぽっちも理解せず、高槻はおれに向かって嬉しそうに狂った笑顔を向けた。

「黙っていてくれる礼に前立腺マッサージでもしてやろうか?」

「いるかぁぁぁぁっ!」

たまらずおれは怒鳴り返した。どうしてこいつに肛門に指を突っ込まれなくてはならないのだ。だが、高槻はきょとんと、

「何故だ!? 毎晩酒と睡眠薬なんか飲んでいるせいで朝立ちもしなくなっているんだろうがっ! その歳でインポは悲しすぎるぞ巳間ぁっ!」

「………もういい」

まず間違いなく施設中に響き渡っているであろう声で叫ぶ高槻に、おれは力なく首を左右に振った。

大体、誰のせいだと思っているのだろう。おれが半ばノイローゼ状態に陥って、酒と睡眠薬を常用しなければ眠れなくなっているのは、八割がたこいつのせいなのだ。それに比べれば自分がしている非人道的な研究への罪悪感など、靴の裏にガムの噛み滓がついた程度の悩みに等しかった。

「まああまり気にするな! 気にしすぎるとますます勃たなくなるぞ!」

高槻はばしばしとおれの背中を叩いた。こいつが便所で手を洗っていないことを思い出して、おれは泣きたくなった。


(「地下世界のオデッセイ」より抜粋)